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この文章に、とても共感した
だからそれを載せる

著者 内田樹

 いまの社会では、「自分らしくふるまえ」、「自分の個性を全面的に表現せよ」といった「自我を断片化して使い分ける」ことに対するきびしい禁忌が幼児期から働いている。
そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。
そして切り離せない以上、「もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものがあらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。
 最近の若い営業マンの中には仕事上のささいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。
それが商取引という限定的な人間関係におけるできごとであるといいことが理解できず、業務上の失態についての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。
 学校での居づらさもそれと同じである。教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にいる自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。「教室で屈託している私」と「それとは別の世界でのびのび活動している私」を適切に分離できれば、システムの不調によって人格がまるごと損なわれることはない。
 これらの症候はいずれも「限定され、断片化された『私』を便宜的に演じる」訓練ができていないことに由来する。
 私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議を思ってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
 あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上での内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」である。
あそこで私が「・・・した」と書いているのは、私が本当ににしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじってつくった「お話」なのである。「私」はと語っている「私は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。そういう簡単なことがわからない人がたくさんいる。私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。
 私は匿名で発信する人間が大嫌いだけど、それ「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本当の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているその人の妄想をありかたが気持ち悪いのである。私は「内田樹」という名前で発信してまるで平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思っていないからである。
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