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本当なんだ、ぼくはよく、もうこれっきり眼がさめなければいいがと願い、さめないでくれと念じつつ寝床に身を横たえる。
ところが朝がくれば眼をあける。
再び太陽を見る、そうしてみじめな思いに沈む。
気まぐれになれたらねぇ。
お天気や第三者や失敗した企てなんかに罪をなすりつけることができたら、堪えられない不満の重荷も半分は軽くなるだろうが、残念ながら、いっさいの罪が自分だけにありことはわかりすぎるくらいわかっているんだ。

―――――いや罪じゃない。
つまり以前のいっさいの幸福の源がぼく自身の中にあったように、いっさいの悲惨の源はぼく自身に隠されているのさ。
以前あふれるばかりの情熱のうちに漂い、一足進むたびごとに、背後に天国が開けていき、一つの世界全体をやさしくかきいだいた心の持ち主は、果して現在のこのぼくなんだろうか。
しかもこの心はもう死んでしまっているんだ。
もうここにはどんな感情もわかない。
眼はひからび、感覚はもはや慰めある涙で元気づくこともなく、額に不安のしわをつける。
苦しくてたまらぬ。
なんといったってぼくの生活の唯一の歓喜だったもの、身のまわりにいくつもの世界をつくりだしたあの新製な活力をなくしてしまったのだから。
あの力はなくなってしまった。
―――窓から遠い丘をながめ、朝日が霧を破って丘の上に昇り、静かな草原を照らして、葉の落ちた柳の間を縫ってゆるやかな川がぼくのいる方へうねってくるのを見るとき―――ああ、このすばらしい自然もまるでニス塗りの風景画のようにぼくの眼下にじっと動かずに置かれているんだ。
どんな歓喜も、ぼくの心臓からただの一滴の幸福感さえ頭脳へ注ぎ込んではくれない。
まるで水のかれた井戸、かわききった置けいに、人間一人が神の面前に突っ立っている。
幾度も地に身を投げて神に涙を乞うた。
空がぎらぎらと輝き、身のまわりの大地がひからびるときに農夫が雨乞いをするように。
だが、むろんだめだ。
神はぼくらのせっかちな願いには雨も陽の光も与えはしない。
それにしても、あのころはなぜあんなにたのしかったんだろう。
思い出すと苦しい。
辛抱強く神の心を待って、神が注ぎかけてくれは歓喜をありがたく切実な思いで心全体で享けたからなんだろうか。

ゲーテ/『若きウェルテルの悩み』
より抜粋
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この文章に、とても共感した
だからそれを載せる

著者 内田樹

 いまの社会では、「自分らしくふるまえ」、「自分の個性を全面的に表現せよ」といった「自我を断片化して使い分ける」ことに対するきびしい禁忌が幼児期から働いている。
そのような社会では、「ある局面においての私」と「別の局面での私」というものを切り離す能力は育たない。
そして切り離せない以上、「もっとも耐性に欠け、もっとも柔軟性を欠いた私」なるものがあらゆる場面でまっさきに露出してくることは避けられないのである。
 最近の若い営業マンの中には仕事上のささいなミスを注意すると、血相を変えて怒るものがいる。
それが商取引という限定的な人間関係におけるできごとであるといいことが理解できず、業務上の失態についての注意を自分の全人格に対する攻撃であるかのように受け取るからそういうことがおこるのである。
 学校での居づらさもそれと同じである。教室にいる自分を「へらへら演じる」ことができないで、教室にいる自分を「まるごと生きて」しまうために、精神が痛めつけられるのだ。「教室で屈託している私」と「それとは別の世界でのびのび活動している私」を適切に分離できれば、システムの不調によって人格がまるごと損なわれることはない。
 これらの症候はいずれも「限定され、断片化された『私』を便宜的に演じる」訓練ができていないことに由来する。
 私がインターネットであれこれと持説を論じたり、私生活について書いたりしているのを不思議を思ってか、「先生、あんなに自分のことをさらけだして、いいんですか?」とたずねた学生さんがいた。
 あのね、私のホームページで「私」と言っているのは「ホームページ上での内田樹」なの。あれは私がつくった「キャラ」である。
あそこで私が「・・・した」と書いているのは、私が本当ににしたことの何万分の一かを選択し、配列し直し、さまざまな嘘やほらをまじってつくった「お話」なのである。「私」はと語っている「私は私の「多重人格のひとつ」にすぎない。そういう簡単なことがわからない人がたくさんいる。私が匿名でものを書かないのは、そのせいである。
 私は匿名で発信する人間が大嫌いだけど、それ「卑怯」とかそういうレヴェルの問題ではなく、「本当の自分」というものが純粋でリアルなものとしてどこかに存在している、と信じているその人の妄想をありかたが気持ち悪いのである。私は「内田樹」という名前で発信してまるで平気である。それは自分のことを「純粋でリアルな存在」だと思っていないからである。
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新たな詩人よ
嵐から雲から光から
新たな透明なエネルギーを得て
人と地球にとるべき形を暗示せよ

新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ

諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか



「宮沢賢治全集」の詩より抜粋











・・・素晴らしい。
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